あんまり人に話したことはないけれど、僕は見た目万能論を唱えている。見た目がいい人はすべてがいい、というものだ。性格がいい、というところからはじまって、仕事が出来るとか会話がうまいとか表現能力がいいとかで、つまり頭もいい。僕はそう思っている。とくに根拠はないから論破しようと思えばいくらだって論破されちゃうんだろうけれど、とにかく僕は実体験からそう思っている。というか、そう思ってきた。
なかなか宗教に醇化しない僕に対して、彼らが2度ほど、別の男を連れてきたことがあった。この男がやたらとかっこよかった。僕は今幸せです、というオーラがにじみ出ていた。少なくとも、たとえ幸せじゃなかったとしてもそんなことは絶対に表に出さないぞ、という決意が感じられる気がした。それはウラを返せば、落ち込んでる自分を表現することで同情を引いたりなんかしないぞ、という決意でもある。
自分の身なりに敏感な人は強い。身なりに敏感だということは、世界と渡りあう方法を知り、世界と正面から戦っているということだ。だからこそ彼らは自らの内部に閉じこもって自分を慰撫したりはしない。
そんな男と相対しながら、僕は、この人に最初に勧誘されていたらわからなかったな、と思った。今まで主として勧誘してきた男というのが、まあ失礼な話、「僕は不幸です!」と全身で叫んでいるような人だった。30歳前半に見えたけれど、童貞で仕事もうまくいってなくてお金も無い、ということがべつに告白されなくてもひと目でわかった。そんな人に「うちの宗教を信じれば幸せになる」とか説かれてもまったく説得力が無かったのだ。
その点、かっこいい男はまとう雰囲気がぜんぜん違った。なにしろ話がおもしろかったし、ちゃんとこっちの言い分も踏まえた会話をした。けれどそれにも増して僕を驚かしたのは、「宗教なんて利用するだけすればいい」と平気で言ってのけたことだ。「俺だってそうなんだよ。やってて幸せになれないんなら誰がやるものか。もしこのまま続けてて今後不幸になることがあるとしたら、俺はそのとき即刻やめる」
きっとその言葉は圧倒的に正しい。「今」幸せになれないことに何の意味があるのだろう。人は「今」生きているのだ。「今は辛いけれど、こうして続けていればきっといつかは幸せになれる」なんていうふうに、今の生活への言い訳として「未来」を持ち出すような態度なんかよりずっとよっぽど健全で、正しい。
彼と話した僕は正直、揺らいだ。本気で入信するに至らなかったのは、いつまでも刹那的な僕があの祈りを捧げる情けない瞬間をどうしても許せなかっただけだ。
ただ、彼との出会いは僕の宗教に対する考え方を変えた。だからその2週間後に僕を勧誘してきた女の子がとってもかわいかったからといって、僕は特段に驚きはしなかった。
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