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1985/01/15
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 タイトルで挨拶しておきながら自分の話をする気まんまんですが。

 新潟を出たのが昨年の10月でしたから、今この時点で1年経っていて、お金の関係でw新潟以外の地で年を越す初めての年になりました。

 よかったと思ってます。むしろ、どうしてもっと早く家を出なかったのか、もっと早く東京で暮らさなかったのか、と思ってます。生きていてよかった、とか、幸せだな、とか、あのとき死なないでよかった、とか、残念ながら今の時点では思ったことがないですが、それでも、生きていて楽しいな、と思えたのはひょっとしたら小学生とか中学生以来なのかもしれません。

 電車に12分も乗ってれば池袋に着くし、イベントはそこかしこでやってるし、そこには当然人がいっぱいいるし、新潟より給料が高いし、朝そこそこの満員電車に乗って、仮初ではあったが六本木ヒルズに出勤し電車に乗って自分の家に帰る。料理をしようかいや今日は外で食べようか、おっ今日はタラが安くなってるムニエルにしよう、しまった買っておいた豆腐の賞味期限が昨日だった……。
 ここに暮らしてから数ヶ月しか経ってませんが、今、僕の(少なくとも「暮らし」の)状況はとても「自然」だと思えます。
 たぶん、僕が社会生活上の常識や人との対話を覚えたのがほぼ書物やフィクションの中からだったから、そしてそういったものが描く生活が普遍的に都会の生活だから、それを読んできた僕の中の常識もまたそういったもので固められていっていたということでしょう。満員電車にも、渋谷駅前のうざいほどの人混みにも、違和感を抱かない。繁華街の駅前の匂いだけは臭くて苦手ですがw
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 一般的には普通だと思うが、子供の頃の僕にはふたつの「おばあちゃんのうち」があった。片方のおばあちゃんのうちを「おばあちゃんのうち」、もう片方のおばあちゃんのうちを地名を取って「西島のおばあちゃんのうち」と呼んでいた。
はい、それではクリスマスに纏わる二編を連続でお届けしました。いかがだったでしょうか?(突然のラジオDJ風)

 かぱりと携帯を開いて、もう一度読む。
〈じゃあそういうことで。係りの子には俺から話をつけておくから、きっと控え室に通してくれると思う。思いきって演奏するので、ぜひ聴きに来てください〉
 時岡駿から小泉美穂へのメール。いつものように絵文字を使わない、色気のないメール。私とメールのやり取りをしていたとき、時岡くんはどんなことを考えてたんだろう。
 なんて。今さらそんなこと考えたってしょうがないのに。
 そんなふうに思っていると、後ろから声がかかった。
「クリスマスブレンド、お出しする準備ができました」
 椅子から立ち上がって取りにいく。にっこりと営業スマイルを見せている店員からコーヒーを受け取って、それから外が見えるカウンター席に戻る。目の前にはぴかぴかに磨かれて鏡のようになったガラス。そこに自分の姿が映る。
 どこも悪くない。入念に手を入れているのだけどわざとらしさがない。すこしは自分の努力を誇ってもいいような気がしてきた。
 だけどこれでもまだ踏ん切りがつかない。
 時岡くんなら私がどんな格好をしていっても笑いかけてくれるはず。さっきの店員みたいに。だから踏ん切りがつかない。どんな格好をしていっても、だなんて。
 もっと、もっともっときれいになりたい。
 こういう気持ちはなんていうんだろう。女の意地?
 ちがうちがう。あわてて打ち消す。女の意地、なんてまるで自分に酔ってるみたいだ。
コーヒーをひと口飲んでから、今度はガラス越しにちゃんと外を見た。朝の街を忙しげに歩く人たちの足元で、珍しく年内からわさわさと降った雪が、もう溶けかけて醜い姿を晒している。
 ほんと、時間が経つのなんてあっという間だった。
 このクリスマスブレンドだって、明後日にはメニューからあっという間に姿を消す運命だ。クリスマスブレンドはそれでも来年になればまたメニューに並ぶ。だけど私はそういうわけにいかない。今年を逃したら、もう二度と。
 そんなのいやだ。考えるまでもなく、いやだ。
 コーヒーを半分以上残したまま席を立つ。
 自動ドアが開くと、寒風が身にしみた。コートの前をしっかりとあわせると、足元でびちゃりと雪が跳ねた。
 それを誰にも気づかれないように、静かに静かに踏みしめる。

      ❆

 こういうところにはあまり免疫がない。
 内心緊張しながらドアを開ける。そしたら間抜けなチャイムが鳴り響いたのでびっくりした。だけどその理由はすぐにわかった。奥に見える階段から人が降りてきて、どうやら住居を兼ねているようだった。
 美容室、でいいのだろうか。店というのも憚られる感じがした。住居を店に改装したというよりは、道楽で家の中に美容室のセットを作ってしまったような雰囲気がある。なにより部屋全体に染み渡っているようなコーヒーの匂いがいっそう現実感をなくしていた。
「美容室、でいいんですよ。よく訊かれます」
 階段を下りてきたのは白いシャツに黒のスラックスといったシンプルな服装をした男性だった。片手に新聞、もう片手には湯気の立ったマグカップを持っている。お客を迎えるような格好には見えない。
 だから、営業してるんですかと訊いてみた。
「してますよ。あんまりお客さんは来ませんけどね」
 どうしよう。こういう場合、やっぱりやめますと言うのは失礼なことなんだろうか。
 私の心中を慮ってか男性は「どうしますか」と言って返答を待った。
 正直、すごく迷った。おかしな髪型にされるくらいなら、このまま行ったほうがいいに決まってる。
 だけど結局好奇心が勝った。コーヒーの香りが漂うこの部屋で、風変わりな店主?はいったいどんなことをしてくれるんだろうと思った。
 それにも増して私の背中を押したのは、猫だった。
 鏡台の前にある大きい椅子の上に、猫が前足を折りたたんで座っていた。その猜疑心に満ちたような、鬱陶しそうな視線が、なぜだか心地よかった。

「どうしますか?」
 この質問が苦手だ。きれいにしてください、なんて素直には言いにくい。
 時間を稼ぐように鏡越しに部屋を見回していたら、またもや猫と目があった。男性にどかされた猫は、今度は丸椅子に座ってとっても迷惑そうに私を睨んでいる。するとああ、このお尻のぬくもりはあの猫のものなんだ。
「猫」
「はい?」
「猫みたいにしてください」
 それで、男性は本気で悩みこんでしまった。文字どおり頭を抱えて。
「嘘です」可笑しみを堪えつつ言うと、男性は露骨にほっとしていた。
「ですよね。猫みたいにヒゲを生やせとでも言うのかと思いましたよ」
「すみません。あの、毛先をすこし整えてください。今夜、友だちの演奏会を聴きにいくので」
 慣れていないせいか、余計なことを口走ってしまう。だけど男性はそんなことを気にせずに「わかりました」とだけ言って、ハサミを入れはじめた。猫は、いつの間にかそっぽを向いて丸くなってしまっていた。

「驚きました。上手なんですね」素直な感想だった。
 鏡の中の自分。もはや手の入れようがないと思っていたところに、もうひとつ磨きがかかったようだった。毛先がきめ細やかにまとめられ、余計な装飾もつけず、さっぱりと整えられたうえに押しつけがましいところが一切ない。
「それほどでもないですよ。あなたの髪、ほとんど完成されてましたし。ぼくはそれにすこし手を入れただけ」
 素直にうれしかった。それから鏡の中の自分を見てもっとうれしくなった。
 もうこれなら大丈夫。いつでも、大丈夫。時岡くんの前に立ってもなにも恥ずかしくない。
 壁にかけられている丸い時計を見ると、まだ開演まで数時間あった。それを確認した瞬間、
「あの」私の口はそんな言葉を紡いでいた。
「え?」
 すこし、心がざわざわした。
「今日はどう過ごされるんですか?」
 この人の「今日」はどういうかたちなんだろう。恋人や奥さんと過ごすのだろうか。それとも家族水入らずなんだろうか。
「どうって……」男性は明らかに困った様子で、
「どうもしませんよ」
 は? え、いや、ちょっと待ってよ。だって今日は……。
 はっとした。
 イエス・キリスト。はるか昔どこか遠くで死んだ、実在するのかどうかさえわからない人物。その誕生日が今日。いや正確にはそのイブ。
 関係、ないのか。そんなの。この人にとっては。
 するりと腑に落ちた。
「コーヒーとか、好きなんですよね。やっぱりコーヒー、今日もたくさん飲むんですか?」
「ああ、はい、コーヒーはね」男性はにっこりと、とてもうれしそうに笑った。
「やっぱり気になりますか、この匂い。女房からもよく言われてました。なんか染みついちゃったみたいで取れないんですよね」
「取る必要ないと思います」私も笑う。
「いい匂いですよ。私もコーヒー、じつは好きなんです」
「そうなんですか? それはうれしいなぁ。どうです、お時間があれば一杯だけ飲んでいきませんか。いい豆が入ったので」
 入った、なんてまるでいっぱしの喫茶店オーナーみたいだと思いながら、もう一度だけ素早く時計を盗み見た。
 ぜんぜん大丈夫。
「それじゃあ一杯だけごちそうになります」
「ええ、じゃあそっちの椅子にかけて待っててください。すぐに、というわけにはいきませんけどね」
 楽しそうに、男性が階段を上っていく。
 座るように勧められた椅子は鏡台とは反対側にあった。まるでそっちがこの部屋のほんとうの姿みたいに溶けこんでいた。
 そこに座ると、猫がひとつあくびをして私がさっきまで座っていた椅子によじ登り、からだを預けて丸くなった。
 ごめんね。今まであなたの場所を取ってて。

「ごちそうさまでした。とってもおいしかったです」
 ドアの前で、自分でも大げさだと思えるほど深々とお辞儀をする。
「また来ます」
「いつでもいらっしゃってください。コーヒー好きなら誰でも歓迎です」
 最後に猫を見ると、こっちを見向きもしないでじっと丸くなっていた。全身でもう来るなと言ってるみたい。
 ぜったいまた来てやる。
 ドアを開けるとまたあの間抜けなチャイムが響いてちょっと噴きだした。

      ❆

 耳をつんざくような拍手がホールを埋める。それに応えるかのように指揮者が舞台袖から出てきてもう一度聴衆に深々と礼をし、拍手が鳴りやんだ。指揮者が言った。
「えー、思いもかけず好評をいただき、アンコールは」指揮者が譜面をめくる。
「ちゃんとここに用意してあります」
 聴衆から笑いが漏れた。
 そして――時岡くんの学生生活最後の演奏が始まった。 
 私には音楽的知識なんてほとんどない。技量の良し悪しを聞き分ける耳があるわけでもない。
 それでも、時岡くんのバイオリンだけは他の部員とは一線を画しているように思えた。重層的な音階の中で、時岡くんの弾く音色だけが私の心に染み入ってくるような気がしょうがなかった。
 そうして、ジャンとひと際大きな音がして演奏は締めくくられた。その直後、今までよりも大きな拍手が会場を埋めつくす。
 私もそれに負けじと手が痛くなるまで手を叩いた。
私の、時岡くんへの最後の拍手。

 控え室の扉が開けられると、中からの熱気がいやというほど伝わってきた。正装した楽団員だけでなく、私みたいな外部からの人間もあちこちにいる。
 その奥に、時岡くんはいた。周りの人と充実した顔で楽しそうに話しあっている。その姿を見たとたん、自分の脚がすこし重くなったような気がする。
 でも大丈夫。
鏡の中の私を思いだす。そうしてみると簡単にどんどん脚は動いた。
「おつかれ。聴きに来たよ」
「あ、小泉さん。ありがとう、聴きに来てくれて」
 いつも見ていた、その顔。
 いつも聞いていた、その声。
 それをもっとずっと見ていたいと思う。聞いていたいと思う。
 正直な気持ち。
「演奏、良かったね。私、音楽とか詳しくないけど、良かったよ」
「ありがとう。ま、気合入ってたよ。自分でもこれは上出来かなって」
「自分で言っちゃうの?」
「言っちゃう言っちゃう。そんだけ良かったんだよ。な?」
 時岡くんはそう言って――隣にいた彼女の腰を引き寄せた。
「はい。先輩、すっごく良かったです。感動しました」
「感動は大げさだろー」
「大げさじゃないですよ。良かったです、ほんとに。私、ちょっと泣いちゃいました」
 そう言うそばから彼女の瞳には光るものが溜まっていた。
「また泣いてんじゃねえかよ、ばか」
 時岡くんは彼女の頭を優しく叩いた。叩かれても彼女はなおうれしそうだ。
「良かったよ、ほんとに」
「ですよねー。小泉さんもそう思いますよね。感動ものですよね?」
「うん、ほんと」
「いや、でも小泉さん、聴きに来てくれてほんとにうれしいよ。俺が演奏するのもこれが最後だからさ、小泉さんには聴いてほしいと思ってたんだよね」
 本心だ。たぶん本心だ。
 だから困る。
「俺たち、春には卒業しちゃうけど……あーあ、もう卒業なのかぁ。早いなぁ」
「だめだって、しんみりするのは。そんなの、この場にあわないよ」
 そう。そんなの、この場にあわない。
 だから、さ。
 もう……やめよう?
「卒論は順調?」
「うわ、いやなこと思い出させてくれるなー」
 時岡くんは笑う。私も笑う。
「まあね、これで卒業できませんでした、なんてなったらかっこわるいじゃん。いちおう進んでるよ。ま、順調とは言えないけどね」
「私も。お互いに、頑張ろうね」
 そう言って私は右手を前に差し出す。
 どうか。どうか、震えていませんように。
 時岡くんはいつもどおりに私を見て微笑んだ。
 ずっと見ていたくて、叶わないと知った、そんな顔。
 差し出された手をぎゅっと握る。思いのほか肉厚でそれでいて暖かい感触に全身が驚く。
「なんか、今日の小泉さん……きれいだね」
「あ、小泉さん、もしかしてこのあとデートなんじゃないですか?」
 うん、もちろん。クリスマスだし。
 用意しておいた台詞、が、言えない。
 のどになにかがつっかえている気がした。
「ううん。だって今日はイブだしさ。イブはイブだよ」
 ふたりとも固まってしまった。
 だろうな。こんなこと言っちゃったら。
「ごめん、とにかく演奏がすごく良かった。それだけ言いたかったんだ」
「ありがとう」時岡くんはやっぱり最後には笑ってくれる。
「じゃあね。また来年、学校で」
「うん。小泉さんも」
 踵を返す。
「あ、小泉さん」
「え?」
「メリークリスマス」
 力が抜けそうになった。キザったらしい台詞に時岡くんのほうが照れて笑っている。
 だから、私も自分にできる精一杯の笑顔で、
「メリー、クリスマス」

      ❆

 外に出ると、雪が降っていた。このぶんだとけっこう積もりそうだ。
 いいよ。どんどん降ってしまえ。この街を覆いつくすほどに。ぜんぶぜんぶ真っ白に塗りつくすまで。
 今日はクリスマスイブなんだから。
 近くを流れる川の水面にビルや街頭の明かりが反射している。
 でもなんでだろう。
 なんか今日はまた一段ときれいだ。
 きっとこれもイブだからだな、と自分をごまかす。
 降りしきる雪に右手をかざす。
 すくい取るように手を伸ばす。
 好きでした。
 ずっと好きでした。今でも好きでした。来年になっても好きでした。
 この雪が積もって街が真っ白になっても、ずっとずっと好きでした。
 手にあたった雪はきらきらとした結晶を見せることもなく、すっと溶けていった。


「お売りできる本などございましたらお持ちください」
 完璧な所作で客をあしらうと、僕はレジの奥で固まっている新人に声をかけた。なにやら困っている様子だ。
 どうしたの? と声をかけると、新人くんは言う。
「これ、見てくださいよ」新人くんは目の前の机に目を落とした。「さっきのお客が売りにきたものなんですけどね」
 机には大量の本が積み上げられている。どれも相当の年季が感じられる。なにかやむにやまれぬ事情があって泣く泣く愛憎書を処分しにきたという感じだった。
「さっきのお客って」僕は言った。「あの年配の?」
 整髪料でギトギトの髪を触りながら、新人くんは黙って頷いた。
 こんな店にこんな古くて価値のありそうな本を持ち込んでも、どうせ捨てられるだけだというのに。業界の悪評を知らなかったのだろうか。
 積み上げられている本をひとつひとつチェックしながら、僕は言った。
「これ、結局いくらで買い取ったの?」
「マニュアルにしたがって、一冊十円で」
「ふーん」
「なんか気まずかったです。これだけ大事にされてそうな本なのに」
 ラディゲの『悪魔』、プリーストの『魔法』、マンの『魔の山』、ハルバースタムの『ベスト&ブライテスト』、トレイヴンの『夜の来訪者その他の物語』、メルヴィルの『白鯨』、ディケンズの『マーティン・チャズルウィット』、エトセトラ、エトセトラ……。どれも持ち主の趣味の良さを窺わせる、貴重な書物ばかりだ。こんなトイレの芳香剤臭くて紫外線だらけの空間にあっていいようなものじゃない。
 気まずいどころの話ではなかったのではないか。そう聞いてみると、
「どうなんでしょうね。顔色ひとつ変えなかったんで」
「ガッカリもしてなかった?」
「というか、僕はむしろ納得していたように感じたんですけどね」
 まさか。どうせこいつは空気を読むことだけ長けて人の心を読むことなんて知らないのだ、とそう思っていたら、塊の一角にニュートンの『書籍収集の楽しみ』を、さらにダニングの『死の蔵書』と『幻の特装本』を見つけた。
 その瞬間、僕は年配の客の考えを理解していた。
 普通なら、こんな本を持つ人がこんな店に大事な本を売ることはない。考えられることはひとつだ。
 このチェーンにも褒められる点がひとつだけだが存在する。それは、本の内容に関わらず一律に値段を設定するというところだ。これがそもそも悪評の原因となっているのだが、見方を変えれば汚点も美点に姿を変える。
 神保町の然るべき古書店だとこの手の書物は、とても一般人には手の届かないような値段となって一部の好事家の手に渡ることになる。
 しかし――ここではそれを百円で手に入れることができるのだ! 見た目が汚れているという取るに足らない理由で! 清貧の愛書家に優しい、なんと忌まわしきシステム――!
 しかも――ああ、なんという紳士だろう! よく見れば本のなかに『足長おじさん』もあるではないか。初老の男性の茶目っ気と英断に敬意を表したい。まさにサンタクロース。
 いいだろう。僕だって腐っても愛書家の端くれだ。これらの本を然るべき人の手に渡す。それが僕の役目だ。
 店長は処分を命令するだろうが、それにはなんとしても抗わなくてはならない。僕は男性の優しく落ち着いた風貌に誓い、シフトを増やすことを決意した。
「あ、そういえばお客の持ってきた本のなかに一冊、奇妙な本があったんですけど」
 僕は新人くんの視線の先を追った。そして、彼が「奇妙」と表現したわけがわかった。
 それは小さく、赤っぽく真四角の版型で、ジャケットがなかった。そしてもっとも奇妙なことは、表紙や背表紙にはなにも印字がないことだった。
 以前見たことがある。アメリカに留学していたとき、バークシャーの「ジョン・R・サンダースンの稀覯書店」で。その書の名は――『Conscience』。
 目が眩んだ。こんな極東のありふれたチェーン店で、無慈悲な蛍光灯に晒されているという現実が理解できない。
「それ、中が英語なんですけど。しかも本の題名がどこにも書いてなくって」
「……きみは触ったのか」
「ええ、そりゃあ」
 新人くんは若干怯んだように言った。僕はとてもじゃないが素手では触れない。
 しかし、まあいい。彼のおかげでこれが紛れもなくあの『Conscience』であることがわかったのだ。ここは譲歩しよう。
「で、いくらで買い取った」
「え、あの、マニュアルにしたがって」マニュアル人間、万歳。「これは買取ができませんのでお持ち帰りください、と」
「それで、なんでここにあるの? いや、責めてるんじゃないんだ」
「じゃあ処分してください、ってお客さんが……そういえば、あのときお客さん笑ってたような気が」
「そう。ありがとう。あとは僕が全部やるから、きみは気にしなくていいよ。それから」
「はい?」
「そこにある本、触らないでね」
 というかその整髪料で本を汚したりしたら老人に代わって僕が殺してやる。


 おそらく、というか間違いなく、老人の持っていた原書はあれ一冊ではない。それを一冊だけここに売りにきたということは。
 老人は笑っていたという。考えるまでもない。これは挑戦だ。おまえらにこの本の価値がわかるか、という。
 わかるとも。他の有象無象の、書店員の風上にも置けないような店員どもにはともかく、僕にはわかる。
『Conscience』はアメリカでは発禁にされていた。表題紙が無く、表紙にもなにも書かれていないのは、それをアメリカに持ち込むための工夫だった。つまり、なにも知らない税関の目を誤魔化すためのトリックというわけだ。
 ドラマチックな経緯を背負った本。アメリカで目にしたときは三桁後半の値がついていた。もちろんドルでだ。あのときはため息をつきながらその場をあとにしたのだったが。
 こんな場所で再び再開できるとはまさに夢にも思わなかった。
 おそらく僕がいなければ簡単に処分されている。あまりにも軽はずみすぎる。いったい老人はどういう心境なのだろう。
 僕もあのぐらいの歳になればわかるのだろうか。


 入念に手を洗って売り場に戻ると、状態が急変していた。
 いつも遅いはずの店長が珍しく早く出てきていて、しかもあろうことかあの本を――あの本を、片手で無造作に扱っている。
「こんな本、どうして受け取った」
「僕もお持ち帰りください、と言ったんですが、お客さんが処分してくれと言うもので」
 新人くんは明らかに困っている。さすがに店長の扱い方などマニュアルにはあるまい。
「処分にも金がかかるんだよ。搬出とかさー。無駄なコストは節減する。それがプロってもんだろ」
「はぁ、すいませんでした」
 店長があの本を机に叩きつける前に、僕は自然な動作でそれを奪った。
「まあまあ、いいじゃないですか。せっかく売りにきてくれたんですから。無下に断るのも悪いじゃないですか。なぁ?」
 新人くんの目は先輩の僕に対する感謝に満ちているように見えた。
「おまえもそうだぞ。本が好きなのはわかるが、俺たちはプロなんだ。プロならプロらしくしろ」
「はい、そうします」ほんとうはそんなプロになりたくはない。
「価値のないものとあるものを見分けろ。こんなおかしな本、どれくらいの価値がある? 奥に積んどけ。わかったな?」
 店長はそう言って、レジの売り上げチェックにかかった。
 彼の言った奥、というのは、いわゆる廃棄処分にする本の溜まり場のことだ。定番コミックやベストセラーなど、回し読みされる類の本は棚に納まりきれなくなるとそこに行き、環境保護という慈善事業のためにトイレットペーパーにされるのを待つことになる。
 本というのは――特に古書の価値というのは、金銭的なものだけで計れるものではない。そこには所有者の思いが込められている。
 こんな成り行きで手にするとは思わなかった『Conscience』は見かけ以上にずっしりと重い。なんとかアメリカに流布させようと努力した人々、それをありがたがったアメリカの人々、そして苦労してこれを手に入れたであろう老人。この重みは、彼らの思いでもある。それを無思慮に溶解してトイレットペーパーにするなんて、ありえない。
 老人のおかげで迷いが断ち切れた。こんな最悪のチェーンの片棒を担ぐのは金輪際やめにする。
 この本とともに店を出よう。僕はそう決断し、「STAFF ONLY」と書かれたドアを開けた。


『Conscience』を手にしたまま更衣室のドアを開けようとした手が、固まった。
 向こう側から談笑する声が聞こえている。少年誌に連載されている漫画の内容に関して議論をしているようだった。彼らは溜まり場から本を持ち出して読んでいるのだ。
 こうして休憩中に溜まり場から本を持ち出すことがよくある。ジュースを飲み、煙草を吹かしながら雫や灰が落ちることも構わず、彼らは本を広げる。もはや売り物ではない本を読むことを注意するものは誰もいない。
 迂闊だった。僕はいったん『Conscience』を溜まり場に置き、勤務が終わってから持ち帰ろうと思っていた。
 しかしそれはできない。見た目からして珍しいから、今置きにいったら彼らの格好の話題の種となってしまうだろう。水滴や灰を落とし、唾も飛ばすかもしれない。
 もはや片時も目を離せない。このままフケるべきか。しかしどうやって? 制服を着替えようにもロッカーはこの中だ。ここはもう強行突破、有無を言わさず――
 駄目だ。大事なことに気づく。これはまだこの店の持ち物なのだ。
 もしも今僕が不自然に帰ったとしたら、店長はじめ彼らはその理由を疑うだろう。そして一冊の本を持っていたことに気づく。そうしたら僕は窃盗犯になってしまう。
 幸い、今この本の存在を知っているのは店長と新人くんだけだ。存在を知っている者を増やすのは得策ではない。間違ってもこの本を持ったまま控え室に入ってはならない。
 店長と新人くんはどうする? 店長はおそらくすぐに忘れる。しかし新人くんは忘れそうにない。むしろ珍しい本が気になって溜まり場を覗いたりするかもしれない。勝手に若年性健忘症を期待するのは虫の良すぎる話だ。口を塞ぐか――?
 馬鹿な。自らの考えに笑う。どうやら相当興奮しているらしい。自覚すると手の汗が気になり、制服の裾越しに本を掴んだ。
 仕方がない。この際、新人くんが気づいても目を瞑ってくれるのを祈ろう。
 あとはこの本をどうやって勤務時間いっぱいまで隠し通すかを考えるだけだ。
 しかしそのとき、外に通じる廊下の奥の扉が開いた。


「お疲れ様です」
 入ってきたのは女性店員だった。
「ん? なに持ってるんですか?」
 彼女は目ざとく見つけて、僕に身を寄せてきた。少々太り気味の彼女はいつも香水臭いが、鼻をしかめてばかりもいられない。
「なんでもないよ」
 本をじかに手で持ち、からだで隠すようにしたら、彼女はより身を寄せてきた。もはや密着している。
 彼女が僕のことを憎からず思っているのは知っていた。これもなにを隠したか気になる、という理由にかこつけたものだろう。彼女が興味あるのはこの本ではなく僕だ、と結論づける。
「それより今日は早いね。どうかしたの?」
 案の定、僕がすこし距離を取り話しかけると彼女は追及の手を緩めた。
「雪で電車が遅れると思って早めにうちを出たんですよ」
「雪?」
 見れば、彼女の肩には柔らかそうな雪が載っていた。それを払ってあげながら、そして彼女の嬉しそうな顔を見ながら、僕は内心で舌打ちした。
 入れ物が必要だ。雪で本が濡れるのを嫌ったわけだが、そうでなくても入れ物は必要だったのだ。まさかそのまま素で持って帰るわけにいくまい。
 必要な工程の多さにげんなりする。傘一本だけを携えた自分の身軽さが恨めしい。
「素敵ですね。ホワイトクリスマスだなんて」
「正確にはホワイトクリスマスイブだけれどね」
 それで名案を思いついた。
「きみも今日は早く帰りたいんじゃない?」
「え~、私にそんな相手いませんって」
「そのわりにはなんか今日はおしゃれじゃない? なんで?」
「さぁ、なんででしょうね?」
 彼女は小首を傾げて言った。
「さ、お互いにこんな仕事さっさと終わらせてホワイトクリスマスを楽しもう」
「正確にはホワイトクリスマスイブ、でしょう?」
 彼女は笑って女子更衣室へ向かった。
 僕はそのまま備品室へと入った。そして黄色のビニール袋を数枚引っ張り出し、本を幾重にも包んだ。間抜けなロゴが目に痛いが、それでも外気から開放されて『Conscience』はそれらしくなった。
 備品室は暖房が無く、澄んで凍てついた空気が漂っている。数回ゆっくりと深呼吸してから、携帯でメールを打った。
<ごめん、残業で遅くなります。先にうちで待ってて。ごめんねm(__)m>
 真由子には申し訳ないと思う。しかし、今はこの方法しか考えられない。しかもそれは今このときを逃すとこの先チャンスは訪れそうにもないのだ。
 もう一度深呼吸をしてから決意を固め、備品室を出て、女子更衣室の前に立った。
 中は静かだ。今日のシフトには女性が一人しか入っていないという僕の記憶は間違っていなかった。
 ノックをすることもなく、ドアを開けた。彼女は上着を脱ごうとしている最中だった。なにか言われる前に口にする。
「好きだ」
 数歩。そして反論を封じるように強引に唇を重ねた。
 左手は彼女の手を取り、右手は――本を持っている右手は、からだの後ろに。彼女は目を閉じている。いける。
 傍らの鏡を見ながら右手を彼女の大きなバッグに近づけて、そのまま中に突っ込んだ。あまり時間がないという焦りからか、あまり大きな音を立てられないということも手伝って、予想以上に困難な作業だった。しかし何度か試したのちに、ようやくバッグの奥のスペースに収めることに成功した。
 唇を離すと、彼女の顔はいやに上気していた。瞳も潤んだような光を湛えている。
「それじゃあ、またあとで」
 それだけ言って踵を返す。ドアの閉まる音を聞きながら、彼女はなにを考えているだろうと想像する。
 もしも、僕がただの勘違いをしているだけだったとしたら目も当てられない。本を持ち帰ることができなくなるばかりか、へたをすると痴漢扱いをされて終わってしまう。
 しかし女性のバッグというのは、僕の知る限り隠し場所としては最も安全な場所だ。自分のバッグから珍妙なものを取り出す真由子の姿を何度も見ている。
 あとは彼女の反応だけだ。


 やがて職場に出てきた彼女を見て、僕は安堵の息を吐くことになった。
 彼女は僕に向けて微笑んで見せたのだ。



 レストランを出て、雪の降りしきる街を歩きながら彼女は言った。
「私、こういうの憧れてたんです」
「こういうの?」
「こういうの」
 彼女はぎゅっと僕の腕を握り、身を寄せた。顔が少しにやけているのは照れているからだろう。
「いつも、街でカップルを見るたびに羨ましいな、って思ってました。あんなに幸せそうで、外から見たらとっても恥ずかしいのに。ああ、私たちも今恥ずかしいんでしょうね、外から見れば」
 と言いながらも、言葉とは裏腹にさらに身を寄せるのを強くする。
「僕もそう思ってたよ」嘘だけど。
「ほんとですか?」
「うん。嘘っぽく聞こえる?」
「いいえ。そうじゃなくって。なんか信じられない気分で」とても幸せそうだ。「周りにはカップルばっかり。そんな中に私もいるんだなって。夢みたい」
「僕も夢みたいな気分だよ」
「今日って特別な日ですね」
「きっと忘れられないだろうね」
「あ」
 彼女はなにかに気づいたように口を丸く開けた。
「気づかなくて、すいません。肩、濡れちゃってますね」
 彼女は身を乗り出して僕の右肩に載っていた雪を払った。半分溶けかけていたようで、びしゃっという音がした。
「いいんですよ、気を使わなくても。私、少しくらい濡れても平気ですから」
「そういうわけにはいかないよ」
 そうなのだ。彼女が左腕にかけているバッグ。防水効果がどのくらいあるのか知らないから、一瞬たりとも気が抜けない。
「優しいんですね」
 絶望的にすれ違っている。
 僕が欲しいのはきみじゃない。きみのバッグの中身だ。


 驚くことに、彼女はホテルを予約していた。
「願かけだったんです」
 などといじらしいことを言う。
「もしかしたらとんだ散財だったかもしれないね」
「でも、そうはならなかったですね」
 キーを受け取り、エレベーターに乗った。
「もし誘ってくれなかったら、私、自分から言うつもりだったんですよ」
「ホテルに? 最近の子は進んでるって言うけど……」
「いえ、そうじゃなくって」
 言いよどむ彼女を見て、おおよその事情が呑みこめた。
「ホテルを予約はしたけど、こんなつもりじゃなかった? 引き返そうか?」困るけど。
「はい……いいえ、いいんです。ここまできたんですし」
 そう言って彼女は掴みなれた僕の腕を握った。少し震えているように感じるのは気のせいではないだろう。
「大丈夫だよ」心配しなくてもこっちには抱くつもりなんてさらさら無いから。
「はい。お願いします」



 狭い空間に水の滴る音が乱反射している。顔に熱湯を直接かけると、不思議と頭がクリアになる気がする。
 部屋では彼女が待っている。そして僕のあとにシャワーを浴びるのだ。そういうものだと説明して納得させた。シャワーから出た彼女は驚くだろう。泣くかもしれない。
 泣く……ほんとうにいいのだろうか。
 部屋で聞いた彼女の告白が脳裏に甦る。
「私、大学を出たら書店で働くのが夢なんです。そして、たくさんの人に夢を届けたい。青臭い考えだって笑いますか? でも私、それでも本が好きなんです。その気持ちをほかの人にも共有してもらいたいんです。ただの自己満足だってわかってます。でも、それでも――それでもほんの少しだけでもいいんです。ああ、この本は良かったな、って。買ってよかったねって。言ってもらいたいわけじゃなくて、そう思ってくれる人が少しでもいるなら。私はそう考えるだけでもいいんです。自分の仕事に誇りを持てるって大事じゃないですか」
 きみみたいなのがなんであんなところでバイトしてるんだ? あんなとこ、本をたくさん捨ててるんだぜ。きみの言い方で言うなら、彼らは、というか僕らは夢を捨ててるんだよ?
「あんなとこ、なんて言っちゃだめですよ。それはまあ、もったいないなーとは思いますけど」
 もったいない?
「怒らないでください。貴重な本が分別もつけられずに捨てられているのは知ってます。でも貴重貴重って、そんなに本の外見が大事ですか? 私は本が好きですけど、それは本そのものじゃなくって、中身の素晴らしい物語が好きなんです。本は芸術品じゃないんですよ、私の中では。だってあのお店って安いじゃないですか。誰でも読めるんですよ? これって、すごくないですか?」
 すごい、かな?
「はいっ、すごいですよ。私のうち貧乏だったんで、いつも買ってもらう本は中古ばっかりだったんです、チェーン店の。でもそのおかげでほかの人よりもたくさんの本を読むことができました。私は感謝してますし、好きです、とっても」
 そのあとはキスをして誤魔化した。今から思えば、更衣室でしたときよりも気持ちが入っていたようにも思う。
 ひょっとすると、僕は自分で思っていたよりも馬鹿なのかもしれない。
 おそらく彼女は間違っていない。そして僕も間違っていない。
 貴重な書物が失われるということ。それはそれで悲劇だ。彼女の言うこともわかる。中身が大事。それもそうだ。しかし特別な装丁で読まれた本はまた、特別な気持ちを読者に与える。それは古書ならなおさらだ。歴代の所有者の思いが詰まっているのだから。
 歴代の所有者の思い……ならば僕はどうなる? こうして人の気持ちを裏切ろうとしている僕は――?
 どこから間違えた? あのとき有無を言わさず更衣室に入っていればよかったのか? それとも人を信用せずに全て自分一人で処理しようと思ったのがいけなかったのか? それとも――彼女を利用しようとしたのがまずかったのか?
 床にある排水溝に水が渦を巻いて流れ出している。それが鬱陶しくて足でせき止めると、見る見るうちに水が溜まっていった。
 答えを出す。僕は馬鹿だ。もはや引き返せないところまで来ている。引き返したかったのは彼女ではなく僕のほうだったか。
 彼女はなんと言うだろう。怒るだろうか。悲しむだろうか。どちらにしても泣くだろう。それを受け止める自信が僕にあるのか。ある、とは断言できない自信がある。言葉遊びをしている場合じゃない。決めるんだ、決めるんだ、決めるんだ――。必要なのは、少しの決意だけ。彼女がここへ来た気持ちに較べれば簡単なものだろう?
 シャワーを止める。足をどける。すると、あっけないほど簡単に水は全て流れていった。
 腹は据わった。
 シャワー室を出て、バスタオルではなく服を着る。
 ノブに手をかけると、部屋の中の気配に耳を澄ました。わずかな音もない。
 彼女は疲れて寝てしまったのだろうか。それはそれで困る。言いだす決意が萎えてしまう。
 ノブを回した。


 呆気に取られた。
 彼女は、どこにもいなかった。


 ロビーに出ているのかもしれないと思い、三十分待った。そのあと部屋をくまなく探した。クローゼットはおろか、ベッドの下やナイトテーブルの引き出しも覗いた。そしてこの期に及んで彼女そのものではなくバッグを探している自分に気づき愕然とした。
 ホテルを一人で、しかもその日のうちにチェックアウトするというのはなかなか屈辱的な体験だった。心なしかフロント係も同情的に見えた。いっそのこと明け透けに笑ってくれたほうがせいせいしたのだが。
 ホテルの周辺を当ても無く探し歩いた。近所の書店も探したが、予想どおり、そんなところにはいなかった。
 思えば、彼女の好きな店も知らない。彼女はこの聖夜に一人でどこを歩いているのだろうか。どんな心境で、どんなふうに。
 いつのまにか雪がやんでいた。


 悄然としてうちに戻った僕を待っていたのは、真由子がいないという現実だった。
 まだうちに来ていないのか、と携帯を手にしたら、メールの着信があったことに気づいた。真由子からだ。開く。
<駅まで迎えにいった。見たよ。最低。>
 携帯を取り落としそうになり、それすらも躊躇われた。
 よく見れば時刻はもう十一時を回っている。テーブルには二人分の夕食。
「くっ……あははははははははははは!」
 堰を切ったように、自分の口から笑い声が流れ出た。腹を抱えながらソファに倒れこむ。
『Conscience』の内容を思い出したのだ。
 それは、野心を抱く青年がさまざまな葛藤の果てに全てを失う物語だった。
 客の老人の風貌を思い描く。落ち着いた風体だ。まったく、とんだサンタがいたものだ。
 机の上の食事はすっかり冷めていて、真由子お得意のローストビーフはそれでもやっぱり美味しかった。
 自分でも言ったとおり、今日は一生忘れられない一日になりそうだ。
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