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男性
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1985/01/15
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「お売りできる本などございましたらお持ちください」
 完璧な所作で客をあしらうと、僕はレジの奥で固まっている新人に声をかけた。なにやら困っている様子だ。
 どうしたの? と声をかけると、新人くんは言う。
「これ、見てくださいよ」新人くんは目の前の机に目を落とした。「さっきのお客が売りにきたものなんですけどね」
 机には大量の本が積み上げられている。どれも相当の年季が感じられる。なにかやむにやまれぬ事情があって泣く泣く愛憎書を処分しにきたという感じだった。
「さっきのお客って」僕は言った。「あの年配の?」
 整髪料でギトギトの髪を触りながら、新人くんは黙って頷いた。
 こんな店にこんな古くて価値のありそうな本を持ち込んでも、どうせ捨てられるだけだというのに。業界の悪評を知らなかったのだろうか。
 積み上げられている本をひとつひとつチェックしながら、僕は言った。
「これ、結局いくらで買い取ったの?」
「マニュアルにしたがって、一冊十円で」
「ふーん」
「なんか気まずかったです。これだけ大事にされてそうな本なのに」
 ラディゲの『悪魔』、プリーストの『魔法』、マンの『魔の山』、ハルバースタムの『ベスト&ブライテスト』、トレイヴンの『夜の来訪者その他の物語』、メルヴィルの『白鯨』、ディケンズの『マーティン・チャズルウィット』、エトセトラ、エトセトラ……。どれも持ち主の趣味の良さを窺わせる、貴重な書物ばかりだ。こんなトイレの芳香剤臭くて紫外線だらけの空間にあっていいようなものじゃない。
 気まずいどころの話ではなかったのではないか。そう聞いてみると、
「どうなんでしょうね。顔色ひとつ変えなかったんで」
「ガッカリもしてなかった?」
「というか、僕はむしろ納得していたように感じたんですけどね」
 まさか。どうせこいつは空気を読むことだけ長けて人の心を読むことなんて知らないのだ、とそう思っていたら、塊の一角にニュートンの『書籍収集の楽しみ』を、さらにダニングの『死の蔵書』と『幻の特装本』を見つけた。
 その瞬間、僕は年配の客の考えを理解していた。
 普通なら、こんな本を持つ人がこんな店に大事な本を売ることはない。考えられることはひとつだ。
 このチェーンにも褒められる点がひとつだけだが存在する。それは、本の内容に関わらず一律に値段を設定するというところだ。これがそもそも悪評の原因となっているのだが、見方を変えれば汚点も美点に姿を変える。
 神保町の然るべき古書店だとこの手の書物は、とても一般人には手の届かないような値段となって一部の好事家の手に渡ることになる。
 しかし――ここではそれを百円で手に入れることができるのだ! 見た目が汚れているという取るに足らない理由で! 清貧の愛書家に優しい、なんと忌まわしきシステム――!
 しかも――ああ、なんという紳士だろう! よく見れば本のなかに『足長おじさん』もあるではないか。初老の男性の茶目っ気と英断に敬意を表したい。まさにサンタクロース。
 いいだろう。僕だって腐っても愛書家の端くれだ。これらの本を然るべき人の手に渡す。それが僕の役目だ。
 店長は処分を命令するだろうが、それにはなんとしても抗わなくてはならない。僕は男性の優しく落ち着いた風貌に誓い、シフトを増やすことを決意した。
「あ、そういえばお客の持ってきた本のなかに一冊、奇妙な本があったんですけど」
 僕は新人くんの視線の先を追った。そして、彼が「奇妙」と表現したわけがわかった。
 それは小さく、赤っぽく真四角の版型で、ジャケットがなかった。そしてもっとも奇妙なことは、表紙や背表紙にはなにも印字がないことだった。
 以前見たことがある。アメリカに留学していたとき、バークシャーの「ジョン・R・サンダースンの稀覯書店」で。その書の名は――『Conscience』。
 目が眩んだ。こんな極東のありふれたチェーン店で、無慈悲な蛍光灯に晒されているという現実が理解できない。
「それ、中が英語なんですけど。しかも本の題名がどこにも書いてなくって」
「……きみは触ったのか」
「ええ、そりゃあ」
 新人くんは若干怯んだように言った。僕はとてもじゃないが素手では触れない。
 しかし、まあいい。彼のおかげでこれが紛れもなくあの『Conscience』であることがわかったのだ。ここは譲歩しよう。
「で、いくらで買い取った」
「え、あの、マニュアルにしたがって」マニュアル人間、万歳。「これは買取ができませんのでお持ち帰りください、と」
「それで、なんでここにあるの? いや、責めてるんじゃないんだ」
「じゃあ処分してください、ってお客さんが……そういえば、あのときお客さん笑ってたような気が」
「そう。ありがとう。あとは僕が全部やるから、きみは気にしなくていいよ。それから」
「はい?」
「そこにある本、触らないでね」
 というかその整髪料で本を汚したりしたら老人に代わって僕が殺してやる。


 おそらく、というか間違いなく、老人の持っていた原書はあれ一冊ではない。それを一冊だけここに売りにきたということは。
 老人は笑っていたという。考えるまでもない。これは挑戦だ。おまえらにこの本の価値がわかるか、という。
 わかるとも。他の有象無象の、書店員の風上にも置けないような店員どもにはともかく、僕にはわかる。
『Conscience』はアメリカでは発禁にされていた。表題紙が無く、表紙にもなにも書かれていないのは、それをアメリカに持ち込むための工夫だった。つまり、なにも知らない税関の目を誤魔化すためのトリックというわけだ。
 ドラマチックな経緯を背負った本。アメリカで目にしたときは三桁後半の値がついていた。もちろんドルでだ。あのときはため息をつきながらその場をあとにしたのだったが。
 こんな場所で再び再開できるとはまさに夢にも思わなかった。
 おそらく僕がいなければ簡単に処分されている。あまりにも軽はずみすぎる。いったい老人はどういう心境なのだろう。
 僕もあのぐらいの歳になればわかるのだろうか。


 入念に手を洗って売り場に戻ると、状態が急変していた。
 いつも遅いはずの店長が珍しく早く出てきていて、しかもあろうことかあの本を――あの本を、片手で無造作に扱っている。
「こんな本、どうして受け取った」
「僕もお持ち帰りください、と言ったんですが、お客さんが処分してくれと言うもので」
 新人くんは明らかに困っている。さすがに店長の扱い方などマニュアルにはあるまい。
「処分にも金がかかるんだよ。搬出とかさー。無駄なコストは節減する。それがプロってもんだろ」
「はぁ、すいませんでした」
 店長があの本を机に叩きつける前に、僕は自然な動作でそれを奪った。
「まあまあ、いいじゃないですか。せっかく売りにきてくれたんですから。無下に断るのも悪いじゃないですか。なぁ?」
 新人くんの目は先輩の僕に対する感謝に満ちているように見えた。
「おまえもそうだぞ。本が好きなのはわかるが、俺たちはプロなんだ。プロならプロらしくしろ」
「はい、そうします」ほんとうはそんなプロになりたくはない。
「価値のないものとあるものを見分けろ。こんなおかしな本、どれくらいの価値がある? 奥に積んどけ。わかったな?」
 店長はそう言って、レジの売り上げチェックにかかった。
 彼の言った奥、というのは、いわゆる廃棄処分にする本の溜まり場のことだ。定番コミックやベストセラーなど、回し読みされる類の本は棚に納まりきれなくなるとそこに行き、環境保護という慈善事業のためにトイレットペーパーにされるのを待つことになる。
 本というのは――特に古書の価値というのは、金銭的なものだけで計れるものではない。そこには所有者の思いが込められている。
 こんな成り行きで手にするとは思わなかった『Conscience』は見かけ以上にずっしりと重い。なんとかアメリカに流布させようと努力した人々、それをありがたがったアメリカの人々、そして苦労してこれを手に入れたであろう老人。この重みは、彼らの思いでもある。それを無思慮に溶解してトイレットペーパーにするなんて、ありえない。
 老人のおかげで迷いが断ち切れた。こんな最悪のチェーンの片棒を担ぐのは金輪際やめにする。
 この本とともに店を出よう。僕はそう決断し、「STAFF ONLY」と書かれたドアを開けた。


『Conscience』を手にしたまま更衣室のドアを開けようとした手が、固まった。
 向こう側から談笑する声が聞こえている。少年誌に連載されている漫画の内容に関して議論をしているようだった。彼らは溜まり場から本を持ち出して読んでいるのだ。
 こうして休憩中に溜まり場から本を持ち出すことがよくある。ジュースを飲み、煙草を吹かしながら雫や灰が落ちることも構わず、彼らは本を広げる。もはや売り物ではない本を読むことを注意するものは誰もいない。
 迂闊だった。僕はいったん『Conscience』を溜まり場に置き、勤務が終わってから持ち帰ろうと思っていた。
 しかしそれはできない。見た目からして珍しいから、今置きにいったら彼らの格好の話題の種となってしまうだろう。水滴や灰を落とし、唾も飛ばすかもしれない。
 もはや片時も目を離せない。このままフケるべきか。しかしどうやって? 制服を着替えようにもロッカーはこの中だ。ここはもう強行突破、有無を言わさず――
 駄目だ。大事なことに気づく。これはまだこの店の持ち物なのだ。
 もしも今僕が不自然に帰ったとしたら、店長はじめ彼らはその理由を疑うだろう。そして一冊の本を持っていたことに気づく。そうしたら僕は窃盗犯になってしまう。
 幸い、今この本の存在を知っているのは店長と新人くんだけだ。存在を知っている者を増やすのは得策ではない。間違ってもこの本を持ったまま控え室に入ってはならない。
 店長と新人くんはどうする? 店長はおそらくすぐに忘れる。しかし新人くんは忘れそうにない。むしろ珍しい本が気になって溜まり場を覗いたりするかもしれない。勝手に若年性健忘症を期待するのは虫の良すぎる話だ。口を塞ぐか――?
 馬鹿な。自らの考えに笑う。どうやら相当興奮しているらしい。自覚すると手の汗が気になり、制服の裾越しに本を掴んだ。
 仕方がない。この際、新人くんが気づいても目を瞑ってくれるのを祈ろう。
 あとはこの本をどうやって勤務時間いっぱいまで隠し通すかを考えるだけだ。
 しかしそのとき、外に通じる廊下の奥の扉が開いた。


「お疲れ様です」
 入ってきたのは女性店員だった。
「ん? なに持ってるんですか?」
 彼女は目ざとく見つけて、僕に身を寄せてきた。少々太り気味の彼女はいつも香水臭いが、鼻をしかめてばかりもいられない。
「なんでもないよ」
 本をじかに手で持ち、からだで隠すようにしたら、彼女はより身を寄せてきた。もはや密着している。
 彼女が僕のことを憎からず思っているのは知っていた。これもなにを隠したか気になる、という理由にかこつけたものだろう。彼女が興味あるのはこの本ではなく僕だ、と結論づける。
「それより今日は早いね。どうかしたの?」
 案の定、僕がすこし距離を取り話しかけると彼女は追及の手を緩めた。
「雪で電車が遅れると思って早めにうちを出たんですよ」
「雪?」
 見れば、彼女の肩には柔らかそうな雪が載っていた。それを払ってあげながら、そして彼女の嬉しそうな顔を見ながら、僕は内心で舌打ちした。
 入れ物が必要だ。雪で本が濡れるのを嫌ったわけだが、そうでなくても入れ物は必要だったのだ。まさかそのまま素で持って帰るわけにいくまい。
 必要な工程の多さにげんなりする。傘一本だけを携えた自分の身軽さが恨めしい。
「素敵ですね。ホワイトクリスマスだなんて」
「正確にはホワイトクリスマスイブだけれどね」
 それで名案を思いついた。
「きみも今日は早く帰りたいんじゃない?」
「え~、私にそんな相手いませんって」
「そのわりにはなんか今日はおしゃれじゃない? なんで?」
「さぁ、なんででしょうね?」
 彼女は小首を傾げて言った。
「さ、お互いにこんな仕事さっさと終わらせてホワイトクリスマスを楽しもう」
「正確にはホワイトクリスマスイブ、でしょう?」
 彼女は笑って女子更衣室へ向かった。
 僕はそのまま備品室へと入った。そして黄色のビニール袋を数枚引っ張り出し、本を幾重にも包んだ。間抜けなロゴが目に痛いが、それでも外気から開放されて『Conscience』はそれらしくなった。
 備品室は暖房が無く、澄んで凍てついた空気が漂っている。数回ゆっくりと深呼吸してから、携帯でメールを打った。
<ごめん、残業で遅くなります。先にうちで待ってて。ごめんねm(__)m>
 真由子には申し訳ないと思う。しかし、今はこの方法しか考えられない。しかもそれは今このときを逃すとこの先チャンスは訪れそうにもないのだ。
 もう一度深呼吸をしてから決意を固め、備品室を出て、女子更衣室の前に立った。
 中は静かだ。今日のシフトには女性が一人しか入っていないという僕の記憶は間違っていなかった。
 ノックをすることもなく、ドアを開けた。彼女は上着を脱ごうとしている最中だった。なにか言われる前に口にする。
「好きだ」
 数歩。そして反論を封じるように強引に唇を重ねた。
 左手は彼女の手を取り、右手は――本を持っている右手は、からだの後ろに。彼女は目を閉じている。いける。
 傍らの鏡を見ながら右手を彼女の大きなバッグに近づけて、そのまま中に突っ込んだ。あまり時間がないという焦りからか、あまり大きな音を立てられないということも手伝って、予想以上に困難な作業だった。しかし何度か試したのちに、ようやくバッグの奥のスペースに収めることに成功した。
 唇を離すと、彼女の顔はいやに上気していた。瞳も潤んだような光を湛えている。
「それじゃあ、またあとで」
 それだけ言って踵を返す。ドアの閉まる音を聞きながら、彼女はなにを考えているだろうと想像する。
 もしも、僕がただの勘違いをしているだけだったとしたら目も当てられない。本を持ち帰ることができなくなるばかりか、へたをすると痴漢扱いをされて終わってしまう。
 しかし女性のバッグというのは、僕の知る限り隠し場所としては最も安全な場所だ。自分のバッグから珍妙なものを取り出す真由子の姿を何度も見ている。
 あとは彼女の反応だけだ。


 やがて職場に出てきた彼女を見て、僕は安堵の息を吐くことになった。
 彼女は僕に向けて微笑んで見せたのだ。



 レストランを出て、雪の降りしきる街を歩きながら彼女は言った。
「私、こういうの憧れてたんです」
「こういうの?」
「こういうの」
 彼女はぎゅっと僕の腕を握り、身を寄せた。顔が少しにやけているのは照れているからだろう。
「いつも、街でカップルを見るたびに羨ましいな、って思ってました。あんなに幸せそうで、外から見たらとっても恥ずかしいのに。ああ、私たちも今恥ずかしいんでしょうね、外から見れば」
 と言いながらも、言葉とは裏腹にさらに身を寄せるのを強くする。
「僕もそう思ってたよ」嘘だけど。
「ほんとですか?」
「うん。嘘っぽく聞こえる?」
「いいえ。そうじゃなくって。なんか信じられない気分で」とても幸せそうだ。「周りにはカップルばっかり。そんな中に私もいるんだなって。夢みたい」
「僕も夢みたいな気分だよ」
「今日って特別な日ですね」
「きっと忘れられないだろうね」
「あ」
 彼女はなにかに気づいたように口を丸く開けた。
「気づかなくて、すいません。肩、濡れちゃってますね」
 彼女は身を乗り出して僕の右肩に載っていた雪を払った。半分溶けかけていたようで、びしゃっという音がした。
「いいんですよ、気を使わなくても。私、少しくらい濡れても平気ですから」
「そういうわけにはいかないよ」
 そうなのだ。彼女が左腕にかけているバッグ。防水効果がどのくらいあるのか知らないから、一瞬たりとも気が抜けない。
「優しいんですね」
 絶望的にすれ違っている。
 僕が欲しいのはきみじゃない。きみのバッグの中身だ。


 驚くことに、彼女はホテルを予約していた。
「願かけだったんです」
 などといじらしいことを言う。
「もしかしたらとんだ散財だったかもしれないね」
「でも、そうはならなかったですね」
 キーを受け取り、エレベーターに乗った。
「もし誘ってくれなかったら、私、自分から言うつもりだったんですよ」
「ホテルに? 最近の子は進んでるって言うけど……」
「いえ、そうじゃなくって」
 言いよどむ彼女を見て、おおよその事情が呑みこめた。
「ホテルを予約はしたけど、こんなつもりじゃなかった? 引き返そうか?」困るけど。
「はい……いいえ、いいんです。ここまできたんですし」
 そう言って彼女は掴みなれた僕の腕を握った。少し震えているように感じるのは気のせいではないだろう。
「大丈夫だよ」心配しなくてもこっちには抱くつもりなんてさらさら無いから。
「はい。お願いします」



 狭い空間に水の滴る音が乱反射している。顔に熱湯を直接かけると、不思議と頭がクリアになる気がする。
 部屋では彼女が待っている。そして僕のあとにシャワーを浴びるのだ。そういうものだと説明して納得させた。シャワーから出た彼女は驚くだろう。泣くかもしれない。
 泣く……ほんとうにいいのだろうか。
 部屋で聞いた彼女の告白が脳裏に甦る。
「私、大学を出たら書店で働くのが夢なんです。そして、たくさんの人に夢を届けたい。青臭い考えだって笑いますか? でも私、それでも本が好きなんです。その気持ちをほかの人にも共有してもらいたいんです。ただの自己満足だってわかってます。でも、それでも――それでもほんの少しだけでもいいんです。ああ、この本は良かったな、って。買ってよかったねって。言ってもらいたいわけじゃなくて、そう思ってくれる人が少しでもいるなら。私はそう考えるだけでもいいんです。自分の仕事に誇りを持てるって大事じゃないですか」
 きみみたいなのがなんであんなところでバイトしてるんだ? あんなとこ、本をたくさん捨ててるんだぜ。きみの言い方で言うなら、彼らは、というか僕らは夢を捨ててるんだよ?
「あんなとこ、なんて言っちゃだめですよ。それはまあ、もったいないなーとは思いますけど」
 もったいない?
「怒らないでください。貴重な本が分別もつけられずに捨てられているのは知ってます。でも貴重貴重って、そんなに本の外見が大事ですか? 私は本が好きですけど、それは本そのものじゃなくって、中身の素晴らしい物語が好きなんです。本は芸術品じゃないんですよ、私の中では。だってあのお店って安いじゃないですか。誰でも読めるんですよ? これって、すごくないですか?」
 すごい、かな?
「はいっ、すごいですよ。私のうち貧乏だったんで、いつも買ってもらう本は中古ばっかりだったんです、チェーン店の。でもそのおかげでほかの人よりもたくさんの本を読むことができました。私は感謝してますし、好きです、とっても」
 そのあとはキスをして誤魔化した。今から思えば、更衣室でしたときよりも気持ちが入っていたようにも思う。
 ひょっとすると、僕は自分で思っていたよりも馬鹿なのかもしれない。
 おそらく彼女は間違っていない。そして僕も間違っていない。
 貴重な書物が失われるということ。それはそれで悲劇だ。彼女の言うこともわかる。中身が大事。それもそうだ。しかし特別な装丁で読まれた本はまた、特別な気持ちを読者に与える。それは古書ならなおさらだ。歴代の所有者の思いが詰まっているのだから。
 歴代の所有者の思い……ならば僕はどうなる? こうして人の気持ちを裏切ろうとしている僕は――?
 どこから間違えた? あのとき有無を言わさず更衣室に入っていればよかったのか? それとも人を信用せずに全て自分一人で処理しようと思ったのがいけなかったのか? それとも――彼女を利用しようとしたのがまずかったのか?
 床にある排水溝に水が渦を巻いて流れ出している。それが鬱陶しくて足でせき止めると、見る見るうちに水が溜まっていった。
 答えを出す。僕は馬鹿だ。もはや引き返せないところまで来ている。引き返したかったのは彼女ではなく僕のほうだったか。
 彼女はなんと言うだろう。怒るだろうか。悲しむだろうか。どちらにしても泣くだろう。それを受け止める自信が僕にあるのか。ある、とは断言できない自信がある。言葉遊びをしている場合じゃない。決めるんだ、決めるんだ、決めるんだ――。必要なのは、少しの決意だけ。彼女がここへ来た気持ちに較べれば簡単なものだろう?
 シャワーを止める。足をどける。すると、あっけないほど簡単に水は全て流れていった。
 腹は据わった。
 シャワー室を出て、バスタオルではなく服を着る。
 ノブに手をかけると、部屋の中の気配に耳を澄ました。わずかな音もない。
 彼女は疲れて寝てしまったのだろうか。それはそれで困る。言いだす決意が萎えてしまう。
 ノブを回した。


 呆気に取られた。
 彼女は、どこにもいなかった。


 ロビーに出ているのかもしれないと思い、三十分待った。そのあと部屋をくまなく探した。クローゼットはおろか、ベッドの下やナイトテーブルの引き出しも覗いた。そしてこの期に及んで彼女そのものではなくバッグを探している自分に気づき愕然とした。
 ホテルを一人で、しかもその日のうちにチェックアウトするというのはなかなか屈辱的な体験だった。心なしかフロント係も同情的に見えた。いっそのこと明け透けに笑ってくれたほうがせいせいしたのだが。
 ホテルの周辺を当ても無く探し歩いた。近所の書店も探したが、予想どおり、そんなところにはいなかった。
 思えば、彼女の好きな店も知らない。彼女はこの聖夜に一人でどこを歩いているのだろうか。どんな心境で、どんなふうに。
 いつのまにか雪がやんでいた。


 悄然としてうちに戻った僕を待っていたのは、真由子がいないという現実だった。
 まだうちに来ていないのか、と携帯を手にしたら、メールの着信があったことに気づいた。真由子からだ。開く。
<駅まで迎えにいった。見たよ。最低。>
 携帯を取り落としそうになり、それすらも躊躇われた。
 よく見れば時刻はもう十一時を回っている。テーブルには二人分の夕食。
「くっ……あははははははははははは!」
 堰を切ったように、自分の口から笑い声が流れ出た。腹を抱えながらソファに倒れこむ。
『Conscience』の内容を思い出したのだ。
 それは、野心を抱く青年がさまざまな葛藤の果てに全てを失う物語だった。
 客の老人の風貌を思い描く。落ち着いた風体だ。まったく、とんだサンタがいたものだ。
 机の上の食事はすっかり冷めていて、真由子お得意のローストビーフはそれでもやっぱり美味しかった。
 自分でも言ったとおり、今日は一生忘れられない一日になりそうだ。
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古書店めぐりは夫婦で、か
さん / 2013/02/25(Mon) /
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そうですそうです。
丸パクリすぎて恥ずかしいですね(笑)
藤木さん / 2013/03/31(Sun) /
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