一般的には普通だと思うが、子供の頃の僕にはふたつの「おばあちゃんのうち」があった。片方のおばあちゃんのうちを「おばあちゃんのうち」、もう片方のおばあちゃんのうちを地名を取って「西島のおばあちゃんのうち」と呼んでいた。
母方の祖母の家である「おばあちゃんのうち」は典型的な日本家屋で、玄関が広く、間取りはよくわからないが1,2階あわせて部屋が8部屋はあって、玄関から広大な庭を挟んだ向かいにはちょっとしたアパートくらいの大きさの納屋を持っていた。毎年盆暮れ正月には「おばあちゃんのうち」に行って過ごす、というのが決まりごとだった。母の兄弟、つまりおじおばらもそれぞれ子供を連れてくるので、必然的に大所帯となったりしたが、それでも人の居場所が無くなるようなことは無く、居間やダイニングからあぶれた子供たちは大きな庭で夏はセミを取り、冬は雪合戦をして遊んだ。疲れたら仏間にある扇風機を前にして西瓜を食べ、ときどき宿題なんぞをして、眠たくなったら藤の安楽椅子で眠った。
対して、「西島のおばあちゃんのうち」は父方の祖母の家で、玄関が狭く、間取りでいうと3Kといった感じだった。「おばあちゃんのうち」では「おばあちゃん」とセットでいた「おじいちゃん」が、この「西島のおばあちゃんのうち」ではなぜか物心ついたときからすでにいなかった。西島のおばあちゃんは「おばあちゃんのうち」をなぜか「七日町のおばあちゃんのうち」と呼んでいた。その家は風呂が外にあったので、一度正月に泊まりにいったときは湯船まで雪の降りしきる寒い外を経由していかなければならなかった。体を洗った記憶が無いので、おそらくそういったスペースは無かったのだろう。
僕は長男だったので、「お兄ちゃん」と呼ばれることはあっても、「お兄ちゃん」と呼ぶ存在はいなかった。しかし、「西島のおばあちゃんのうち」には「お兄ちゃん」がいたのだ。
彼について覚えていることは少なく、口の周りのひげの剃り跡、ボードゲームを出してきてくれたことと、ワープロの「書院」を貸してくれたことくらいしか覚えていない。ボードゲームはアメリカを舞台にしたモノポリー形式のゲームで、チップとして使うお札が子供の目にはドル札としてリアリティがあって好きだった。書院は小6当時の僕がワープロ・パソコンに興味が出てきた頃合いで、「小説を書きたい」という中二な理由で借りたのだった。今の僕がタッチタイプが出来るのは、紛れもなくこの書院のおかげだと言うことができるだろう。
狭い「西島のおばあちゃんのうち」だが、当然そこには「お兄ちゃんの部屋」があって、僕はその今までどこでも見たことのない異空間が好きだった。
その部屋は、狭かった。入り口から奥に向けてどんどん狭くなっていて、窓がついていないのか、日当たりが悪いのか、昼間でも暗かった。足元はなにか柔らかいもので敷き詰められていて、それを踏みしめながら部屋の奥へ奥へ行くと、最後には天井を文字通り目の前にすることができた。初めて見る至近距離の天井だった。体の小さい子供からしたらちょっとしたアスレチックス気分だった。
盆暮れ正月には、たいてい「おばあちゃんのうち」へ行ってから「西島のおばあちゃんのうち
」へ行くという流れになっていた。今ではもう両方とも6年近く行っていないが、この流れが変わって「西島のおばあちゃんのうち」に行かなくなったのはそれよりももっと早かった。最後に「西島のおばあちゃんのうち」へ行ったとき、西島のおばあちゃんは「強盗に入れらた」と言っていた。強盗が家へ這入ってきて、寝ているおばあちゃんの手の甲に菊の紋用を刻みつけていったのだという。皺だらけでも傷ひとつない手の甲を隠すこともなく西島のおばあちゃんは言っていた。「なんとか参上! みたいなマークなのかね」と。
むろん、僕が大きくなるにつれて、双方のおばあちゃんの家には大きな経済格差があって一方は一軒家、もう一方は借家であって、西島のおじいちゃんがいないのは早逝したか離婚してしまっているからだし、「お兄ちゃん」の正体は結婚せず実家に暮らしている父の弟、つまり叔父であるし、西島のおばあちゃんは完全にボケてしまっていて、それが「西島のおばあちゃんのうち」に行かなくなった直接の原因であることを知っていった。
「西島のおばあちゃんのうち」は忘却の彼方へと葬られつつあった。
僕が大学生のとき、実家の電話が鳴った。当時としてはもう家の固定電話が鳴ることは珍しく、かけてくるのはたいていセールスの電話か弟が警察にお世話になっているという知らせで、いずれにしても厄介な相手だと相場は決まっていた。4コール5コールを経ても鳴り止む気配を見せず、僕は嫌々電話を取った。
相手は「お兄ちゃん」だった。
「もしもし、僕だけど、わかる?」
お兄ちゃんと呼ぶべきなのかおじさんと呼ぶべきなのか判断がつかず、僕は「はい」とだけ言った。
「お父さんいるかなぁ?」
圧倒的な違和感だった。体重のかけ方を忘れたかのように、体がかしいでフローリングがみしりと鳴った。
――いるわけがないのだ。平日の、昼間に。
いない旨を告げると、「お兄ちゃん」は憔悴した様子をそのままに、「携帯電話の番号を知ってる?」と僕に訊いた。
「……知らないんですか?」
「知ってるんだけど、出ないんだよね」
そのとき僕が教えた父の番号は知らされていた番号と同じだったらしい。
「出ないんだよなぁ」と「お兄ちゃん」は繰り返した。
「……何度かかければ、出ますよ。留守電に入れたっていいんだし」
僕がそう言ったのは「お兄ちゃん」に同情をしたわけでもないし、義憤に駆られたわけでもない。ただこの家に迷惑をかけないでほしい、身内の問題は身内で解決してほしい、そしてなにより早く電話を切ってほしいとそれだけを願っていた。
その後のことは知らない。僕はこの一件を家族の誰にも報告していない。
たとえ仮に父が、彼にとっての実家の問題や介護の問題を無視して逃げ続けているのだとしても、僕には関係なかったし、真実、関係したくなかった。
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