「いい匂いがする~」と母が言った5分後には、自分の部屋にいたらしい弟までがリビングに来ていた。揃わなくてもいいタイミングで家族が全員揃ったわけだ。
僕と僕の家族はテーブルを囲んでディスコミュニケーショナルな宙ぶらりんの会話らしきものを交わし、その意図を汲み取るところによれば、僕の作ったカレーを二人も食べる、ということのようだった。食べてみたい、食べさせて、ごちそうになっていい? 彼らが直接そういうふうに言えないのはすべて僕の性格とそれに由来する態度が原因で、つまり家族の中の僕のあり方なんてのはその程度でしかないのだけれど、それはともかく、二人にカレーを食べてもらう、というのは僕にとっても悪い提案ではないと思えた。
相変わらずケチャップの味が若干先行していたが、分量をすべて適当に作ったにしては、そのカレーはおいしかった。実験作です、とおずおずと提出すれば十分受理してもらえるようなレベルには到達していた。……だからそこで満足しておけばよかった。
が、見栄っ張りな僕はもう一手加えたくなった。味にインパクトとコクが無いことが決め手を欠いていたので、それを補強しようなどと思ってしまったのだった。
結論から言えば、カレーにはコーヒーと粉末コンソメを入れた。コーヒーは料理をしながら飲んでいたもので、中途半端に余っていたから入れた。適当に入れたわけじゃなく、カレーにコーヒーを入れるとコクが出る、みたいなことをどっかで読んだことがあった。コンソメの方はネットのレシピに書かれていたもので、作る途中に入れるのを忘れていたから、ちょうどいいや、という気持ちで入れた。
コーヒーを入れたので再びひたひたになったカレーを煮詰める。ちょっとコーヒーの匂いがしたのが気になったけど、新たに生まれ変わった(はず)のカレーをよそって食べてみる。
その瞬間、コンソメがまずかったのか、と思った。もともと大した分量じゃなかったし、煮詰めたから、コンソメの量が多すぎたんだ、と思った。舌をツンと指すような味から僕はそう判断した。弟が立ち上がって皿を準備しだした。
「さっきコンソメ入れたんだけど」僕は素早く、話しはじめた。「なんか味が変になっちゃったみたい」
「コンソメは鶏味だからね」答えたのは母親だった。そういうわけでもないような気がするが。「ん? いつ入れたの?」
「さっき、追加で」
「ああ、それじゃあ……。コンソメは煮込む段階で入れるんだよ、ルーを入れる前」
ううむ、なるほど、と僕は思った。解決したと考えていいようだ。確かにそんな感じの味だ。カレーの味に阻まれて、コンソメの味がきちんと舞台に上がってこれてないみたいな。
弟がカレーを持って席についた。痺れるような緊張を感じる。僕一人だけが感じているのかもしれない。彼にも僕の緊張が移ったのかもしれない。
弟がカレーを口に含み、咀嚼する。彼は何も言わない。咀嚼を続けながら、求人誌を眺めている。
僕も、さっきからすっかり止まっていた手と口を動かす。もうはっきりとまずいと、それも図抜けてまずいのだと認めなければならない。味がついていない、というのを例外とすれば、食べ物に対してはっきりとまずいと感じたのは数年ぶりのことだった。その味を表現するならば異様とか異常とかそんな言葉が適していた。料理に使われるべき言葉とはとうてい思えない。
続いて、母親が皿を準備しだした。
僕は本当に申し訳ない気分だった。明らかにまずい代物を、気を使って何も言わずに食べてくれている弟、最初より明らかにテンションが落ちてるのに食べようとしてくれる母親。僕は、料理すらまっとうにできない人間なのか。
思えば、今まで調子に乗って積極的に自分から働きかけては失敗して恥をかいたり相手を傷つけたりしたことが何度もあった。今回は欲を出してコンソメなんぞを追加投入した(思えば、コンソメを注ぎ足す、という時点で考え方がみみっちい)。学習能力が欠如している。だから僕はこんなところでこんなことをやっているのだろう。
母はカレーを食べてすぐに「苦味がある」と言った。
それだ。僕は今まで考えていたことをすべて忘れてそう思った。この異常な感じは、苦味からきている。そしてそれは僕の入れたコーヒーからきていることも明らかだった。
「なんで苦味が出るんだろう」母は言った。「砂糖? でも今うちの砂糖は無いはずだし……」
コーヒーが、とは言えなかった。もう、自分がどんなにおかしなことをやっていたのか認識していた。フライパンにコーヒーを回し入れたときさっと広がった黒い色、それを煮詰めたときのコーヒーの強烈な匂い。僕はごはんにコーヒーをお茶漬けのようにかけて食べるところを想像した。味の実例は目の前に存在している。急に気持ち悪くなってトイレに行きたくなった。この腹を下す感覚も、確かにコーヒーを飲んだときのそれに他ならなかった。
コーヒーを入れればカレーにコクが生まれるのは確かなんだろう。けど、それはいろいろなものを経験した人だからこそできる芸当だった。上級者用のテクニックだ。僕がカレーにコーヒーを入れるというのは、たとえるならば、着ている服はダサくて不潔なのに、髪の毛だけ完璧にセットしている男の気持ち悪さと共通している。
きみが気を使うべきなのは、そこじゃない。
母と弟は求人誌を眺めて就職とかフリーターの話をしている。お互いの考えをぶつけあっている。僕はそれを聞いているだけだ。お願いだからこっちに話を回さないでくれ、と考えながら。そして実際、就職に関する話題は僕を素通りしてコーヒーカレーの匂いのするリビングに霧散していく。
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