メンターというのは、メンタル面で非常に影響を受けた人、という意味のようだった。
最近知り合った人から、今度私のメンターのうちへ一緒に行かない? と誘われた。
知り合いの名前を仮に長谷川さん、メンターの人を本間さん、と書く。
長谷川さんは専門学校を出てからレストランで働いていた。料理が好きだったから、それを仕事にしたわけだった。彼女自身、おいしいものを食べて過ごす時間が好きだったから、それを他の人にも味わってほしい、という純真な気持ちだけがあった。しかし、一度仕事にしてしまうと、人間関係の軋轢や勤務時間の問題などもあって、料理が嫌いになりそうになってしまった。その危険を感じたとき、彼女は離職し、現在はまったく別の仕事に就いている。
本当に好きなものは仕事にせずに趣味のままにするべきだ、と言いたいわけではない。
将来の夢・目標は何ですか? と聞かれて、大半の子どもは職業を答える。しかし大人は仕事と夢を別のものとして捉える。にも関わらず、大半の人が大きな勘違いをしている、と本間さんは言う。
仕事そのものが目的になるんじゃないし、また、仕事があって目的があるんじゃない。あくまで目的があって仕事がある。言い換えれば、目的があるからこそ、はじめて仕事を選べる。
言葉にしてみればとても当たり前のことだけれど、考え方が違う。なんというか、もっと貪欲であるべきだ。本間さんは例を挙げて説明してくれた。
たとえばBMWがすごく好きな人がいたとする。BMWが好きだからディーラーに勤めることに決めた。けど、本当は扱いたいんじゃなくて、乗り回したいんじゃないだろうか?
だとすれば、彼のするべき仕事はディーラーではない。そのディーラーに通っていて、何台ものBMWを所有している顧客と同じ仕事をするべきだ。BMWをとことん楽しむ道は、そこから開かれる。
拝金主義、と言うこともできるかもしれない。また、事実、乗り回したいというよりも扱いたい、という思いのほうが強かったりもするかもしれない。だけど、僕は考えてしまった。
そもそも、高校から予備校生だったときにかけて、僕には大学に入る、という以外の目的が存在していなかった。だから入学後輪をかけて自堕落になった。その後、無理やり夢をひとつふたつ設定した。それだけで多少はまっすぐ歩けるようになった。
実際にほとんど努力をしていなかったから恥ずかしくてあんまり人には言ってないけど、小説家になることと、彼女を作ることがそれだった。どちらか片方でも達成できれば、人生の大目標である「幸せになること」ができそうな気がした。
けど実際、彼女が出来てみて、あれ、考えてたのと違うな、と思った。じゃあ今度は小説家だ、と今の僕はすこし思っている。でも、その小説家になっても幸せになれなかったらどうするんだろう。というか、小説家になるなんて、今の僕の力量じゃあ難しい。では、小説家になれなかったら幸せではないのだろうか?
幸せって何だろう、なんて低俗なテレビ番組のようだけれど、実際に僕の幸せは低俗なものだ。結局のところ、まとめると、自分の好きな時間に起きて、やりたいぶんだけの仕事をして、有名になって、優越感を得て、なおかつそれなりの収入が入ってきて、女の子と仲良くできればそれでいい。それだけの条件を満たすのなら、要するに仕事なんて何だっていいということになる。
まあ、難しい(笑) 夢物語もいいとこだ。だからこそ就活がうまくいかなかったんだろうと自分でも思う。でも、だからといって考えもせずに諦めるというのは話が違う。
要は考え方の問題ということだろう。そもそも、長谷川さんにしても本間さんにしても、できる限り働きたくない、といった部分から発想が来ている。本間さんは、いわゆる不労所得で生きている人だし、長谷川さんはだからこそそんな彼に憧れを抱いている。長谷川さんの場合は複数のレストランを経営するようになれば、料理の時間を提供することと、一生懸命に働かなくても収入が入ってくる、というふたつの点を同時に満たせる。
と、いうわけで聞いた話と、自分の感想をまとめてみた。
正直、なんかうさんくさい匂いがする。
社会不適合者にとって、いわゆる「できる人」の言葉ほど心に届かないものはない。
以前、長谷川さんは言っていた。
うまくやりたいんだったら、実際にできている人から詳しく方法とか聞いて、まねするようにしたほうがいい。
その方法論は圧倒的に正しいと思う。だけど僕は素直にその言葉を受け入れることができない。コンプレックスが常に僕の邪魔をする。「コンプレックスが常に僕の邪魔をする」なんて、やらないことに対する単なる言い訳でしかないこともわかっている。
――と、いう感じでお決まりの自己否定に突入しそうなのでこのあたりで筆を置く。文章力が明らかに落ちてきているのがわかるのも癪に障る。
本当はすべてにおいて諦めたくない。
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