江頭2:50のことだ。ニコニコ動画および2ちゃんねるの強い影響を受けていることは否めないけれど、彼についてまとめられた動画や文章などを見ていくうちに、そう結論するに至った。
「これをやったら次回出られなくなるんじゃないかなんて考えないようにしている。人間、いつ死ぬかわからないからそのときのすべてを出しきりたいんだ。俺はいつ死ぬかわからないし、見てくれてる人だっていつ死ぬかわからない。視聴者が最後に見た江頭が手抜きの江頭だったら申し訳ないだろ?」
この話を女の子に対してすると、「かっこいいね」という反応が返ってくる。「あの江頭が言うからかっこいいんだろうね」と。僕はそれに強くうなずく。でも彼女は続けてこう言うのだ。「たぶん、ギャップでそう感じるんだろうけど」
やれやれ、と僕は村上春樹流に思った。わかってないな、と。ギャップとかそういうのじゃないのだ。
確かに、彼女の言うことにも一理無いこともない。たとえば藤原竜也だとか妻夫木聡だとかが同じせりふを言ったところでべつにかっこいいとも感じない。だけどそれは「ギャップが無い」からではけっしてない。
藤原竜也はかっこいい→だからかっこいいせりふをしゃべっても今さらとくにかっこいいとは感じない、という流れではなくて、かっこいいせりふをしゃべってもとくにかっこいいとは感じない→つまり、藤原竜也はかっこよくない、という流れになるはずなのだ。
江頭がかっこいいのは、頭が薄くて上半身裸で下はタイツを履いていて見た目変態なのにときどきかっこいいことを言うから、なんて浅い理由では絶対にない。かっこいいせりふが似合う男がかっこいいのだ。そしてそれは、言葉と行動が一貫しているからだ。トルコでのスキャンダラスな行動やテレビの中を縦横無尽に駆け巡る姿は、まさに江頭語録の具現に他ならない。
思い。行動。どちらが、というわけでなくてどちらも含めた「人間」という存在が発する言葉こそが、本物の言葉だろう。
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