最近、「高低差」という言葉をバカのひとつ覚えのようにたくさん使う。昨年の11月から今まで、人間関係においての「高低差」が僕の重大テーマのひとつとして定着してしまったようなのだ。
思春期頃を境にして、同級生よりも先輩と仲良くできることが多かった。バイトに行っても同い年の人たちには気後れしてしまうがおっさんやおばさんとは普通に話せた。当時から思っていたことではあるけれど、人間関係に高低差が必要な人種、それが僕だった。
よくいるといえばいる。
たとえば大学で同級生とはあまり話さないのに、先輩には積極的に話しかけたりする人もいた。
輩はいた、人もいた、と言ってるが、何を隠そういや隠すつもりもないが僕のことである。
気後れする、というのが全ての答えになるだろうか。
本来同等、というか同じ年月を経てきて等量の経験があるはずなのに、同級生と話すと劣等感からうまく言葉が出てこなかったりする。これが先輩相手なら年月の違いにより劣っているのは「当然」という言葉で正当化できるので、気が楽になる。
……というのはどんなに耳障りが悪かろうとただの承前にすぎない。
実際には同級生、同じ立場の人間ともコミュニケーションを取る必要が出てくる。取りたいと思うシチュエーションと出会う。そういうとき、僕らのような人種はどういう態度を取るか。
つい下から近づこうとするのである。
自らをクズとして認識し、ピエロとして彼らに近づき、ありもしない高低差を自ら作るという愚行に及ぶことになるのである。
ゼミ、サークル、部活。環境が違えばそこに所属する人たちの性格も自ずと違ってはくるが、基本的に、大学で知り合った同級生は(ひょっとしたら先輩や後輩もだが)ほとんど僕をそのように見ていたし、たぶん今でも見ている。
僕がたとえば何か非常識な振る舞いを見せるとか、変わった体験を語るとか、穿った見方を提示するとかで、自分としては半分以上がネタのつもりであっても彼らにはわからない。いや、わかっているのかもしれないのだが、なにぶん僕がネタを提出し、彼らがそれをまたネタにして盛り上がっている様が僕にとっては憧れの境地(若干大げさだが)みたいなものだったから僕は大いにそのやり取りを喜ぶし、それを見て彼らもまた僕の扱い方を学習していく。
他人は自分がそう見られたいと思っているように自分を見ようとするらしい。だから結果的に当然なのだが、彼らも僕をそのように扱い始めた。そして定着した。
生きるネタ。それが僕の大学時代の立ち位置だったと言ってもいい。
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