何度も言うようだけど、高校の頃は本気で将来は墓の下か塀の中と思っていた。それはゴミというよりも路傍の石。いや、そんなかっこいいものじゃないか。草? 砂利?
浪人時代は勉強もしないでお金のためにバイトをして、誰とも会話をせずに(できずに)10月の追い込みの時期にPS2買って三國無双にハマってた。ゴミというよりクズというに相応しいか。
大学後半~卒業期は自分の望むもの、チャンス機会を得ていながら人を傷つけつつ泣かせつつ自分も自傷行為に走ったりして、皆が卒業式を控えていた2週間前に輪っかを作って手をかけた。早朝に突如として舞い込んだ友人の訃報がそれを止めさせた。紛れもなくゴミだった。
そして今、ゴミだと思った。
自分の行動にゴミである要素は、もう無い。良くないことはやってない。
あるときから自分に批判的否定的であることをやめた。自信がついた、と言い換えてもいい。無論、それは勘違いや自惚れに類することかもしれない。いや、そうだろう。しかし、少なくとも自分は――僕は、僕の行動思想を認めている。承認している。虚しいと重々承知のうえで言ってしまえば、いちばん僕のことを認めているのは僕自身だろう。
けれど、今、ゴミだと思った。
結果なのだ。過程じゃない。内容じゃない。結果が物語っている。結果が、僕に僕がゴミであることを知らしめている。
どんなに自分の行動が間違っていないと知っていても、結果がもうこれでもかというくらい如実に語りかけてくるのだ。
ゴミだと。
自分がゴミだ、なんてそんなこと言うのはきみと関わりを持ってくれている人たちに失礼だ、という言い方がある。それはそのとおりだろう。けれど、むしろ「自分はゴミだ」と思う、こんな僕のパーソナリティをまるっと認識した上で彼らは僕と関わりを持ってくれているのだとも思う。それくらいには傲慢だ。
僕は僕をいちばん大切にすることにした。僕がいいと思うものはいいものだし、悪いと思うものは悪いものだ。僕が楽しいと思わなかったり幸せにならないような展開は意味が無い。積極的に唾棄する。極論を言えば、たとえば友人の数人を犠牲にすることで僕が間違いなくその後幸せになるという状況が訪れたときに、躊躇なく彼らを犠牲にすることができるくらいに、僕は僕をいちばんに考える。今まで自分に幸せが訪れるなんて考えたこともなかったし、むしろ幸せを受け取らないことが、生まれてきてしまったことに対する礼儀だと思ってきた、そのことに対する補償のようなものだと思ってる。
ゴミだと思ってないよ。上のような思考さえ、今の僕はゴミだと思ってない。おれには、自分自身をよく知ってるからこそ、自分を幸せにする義務があるし、権利がある。
でも、ゴミなのだ。結果がそう言ってる。
やれやれ。ま、一時的な欝みたいなものだと思うね。
もういい歳なんですけどね、いつまでこんなこと考え続けるのかな。
PR