かぱりと携帯を開いて、もう一度読む。
〈じゃあそういうことで。係りの子には俺から話をつけておくから、きっと控え室に通してくれると思う。思いきって演奏するので、ぜひ聴きに来てください〉
時岡駿から小泉美穂へのメール。いつものように絵文字を使わない、色気のないメール。私とメールのやり取りをしていたとき、時岡くんはどんなことを考えてたんだろう。
なんて。今さらそんなこと考えたってしょうがないのに。
そんなふうに思っていると、後ろから声がかかった。
「クリスマスブレンド、お出しする準備ができました」
椅子から立ち上がって取りにいく。にっこりと営業スマイルを見せている店員からコーヒーを受け取って、それから外が見えるカウンター席に戻る。目の前にはぴかぴかに磨かれて鏡のようになったガラス。そこに自分の姿が映る。
どこも悪くない。入念に手を入れているのだけどわざとらしさがない。すこしは自分の努力を誇ってもいいような気がしてきた。
だけどこれでもまだ踏ん切りがつかない。
時岡くんなら私がどんな格好をしていっても笑いかけてくれるはず。さっきの店員みたいに。だから踏ん切りがつかない。どんな格好をしていっても、だなんて。
もっと、もっともっときれいになりたい。
こういう気持ちはなんていうんだろう。女の意地?
ちがうちがう。あわてて打ち消す。女の意地、なんてまるで自分に酔ってるみたいだ。
コーヒーをひと口飲んでから、今度はガラス越しにちゃんと外を見た。朝の街を忙しげに歩く人たちの足元で、珍しく年内からわさわさと降った雪が、もう溶けかけて醜い姿を晒している。
ほんと、時間が経つのなんてあっという間だった。
このクリスマスブレンドだって、明後日にはメニューからあっという間に姿を消す運命だ。クリスマスブレンドはそれでも来年になればまたメニューに並ぶ。だけど私はそういうわけにいかない。今年を逃したら、もう二度と。
そんなのいやだ。考えるまでもなく、いやだ。
コーヒーを半分以上残したまま席を立つ。
自動ドアが開くと、寒風が身にしみた。コートの前をしっかりとあわせると、足元でびちゃりと雪が跳ねた。
それを誰にも気づかれないように、静かに静かに踏みしめる。
❆
こういうところにはあまり免疫がない。
内心緊張しながらドアを開ける。そしたら間抜けなチャイムが鳴り響いたのでびっくりした。だけどその理由はすぐにわかった。奥に見える階段から人が降りてきて、どうやら住居を兼ねているようだった。
美容室、でいいのだろうか。店というのも憚られる感じがした。住居を店に改装したというよりは、道楽で家の中に美容室のセットを作ってしまったような雰囲気がある。なにより部屋全体に染み渡っているようなコーヒーの匂いがいっそう現実感をなくしていた。
「美容室、でいいんですよ。よく訊かれます」
階段を下りてきたのは白いシャツに黒のスラックスといったシンプルな服装をした男性だった。片手に新聞、もう片手には湯気の立ったマグカップを持っている。お客を迎えるような格好には見えない。
だから、営業してるんですかと訊いてみた。
「してますよ。あんまりお客さんは来ませんけどね」
どうしよう。こういう場合、やっぱりやめますと言うのは失礼なことなんだろうか。
私の心中を慮ってか男性は「どうしますか」と言って返答を待った。
正直、すごく迷った。おかしな髪型にされるくらいなら、このまま行ったほうがいいに決まってる。
だけど結局好奇心が勝った。コーヒーの香りが漂うこの部屋で、風変わりな店主?はいったいどんなことをしてくれるんだろうと思った。
それにも増して私の背中を押したのは、猫だった。
鏡台の前にある大きい椅子の上に、猫が前足を折りたたんで座っていた。その猜疑心に満ちたような、鬱陶しそうな視線が、なぜだか心地よかった。
「どうしますか?」
この質問が苦手だ。きれいにしてください、なんて素直には言いにくい。
時間を稼ぐように鏡越しに部屋を見回していたら、またもや猫と目があった。男性にどかされた猫は、今度は丸椅子に座ってとっても迷惑そうに私を睨んでいる。するとああ、このお尻のぬくもりはあの猫のものなんだ。
「猫」
「はい?」
「猫みたいにしてください」
それで、男性は本気で悩みこんでしまった。文字どおり頭を抱えて。
「嘘です」可笑しみを堪えつつ言うと、男性は露骨にほっとしていた。
「ですよね。猫みたいにヒゲを生やせとでも言うのかと思いましたよ」
「すみません。あの、毛先をすこし整えてください。今夜、友だちの演奏会を聴きにいくので」
慣れていないせいか、余計なことを口走ってしまう。だけど男性はそんなことを気にせずに「わかりました」とだけ言って、ハサミを入れはじめた。猫は、いつの間にかそっぽを向いて丸くなってしまっていた。
「驚きました。上手なんですね」素直な感想だった。
鏡の中の自分。もはや手の入れようがないと思っていたところに、もうひとつ磨きがかかったようだった。毛先がきめ細やかにまとめられ、余計な装飾もつけず、さっぱりと整えられたうえに押しつけがましいところが一切ない。
「それほどでもないですよ。あなたの髪、ほとんど完成されてましたし。ぼくはそれにすこし手を入れただけ」
素直にうれしかった。それから鏡の中の自分を見てもっとうれしくなった。
もうこれなら大丈夫。いつでも、大丈夫。時岡くんの前に立ってもなにも恥ずかしくない。
壁にかけられている丸い時計を見ると、まだ開演まで数時間あった。それを確認した瞬間、
「あの」私の口はそんな言葉を紡いでいた。
「え?」
すこし、心がざわざわした。
「今日はどう過ごされるんですか?」
この人の「今日」はどういうかたちなんだろう。恋人や奥さんと過ごすのだろうか。それとも家族水入らずなんだろうか。
「どうって……」男性は明らかに困った様子で、
「どうもしませんよ」
は? え、いや、ちょっと待ってよ。だって今日は……。
はっとした。
イエス・キリスト。はるか昔どこか遠くで死んだ、実在するのかどうかさえわからない人物。その誕生日が今日。いや正確にはそのイブ。
関係、ないのか。そんなの。この人にとっては。
するりと腑に落ちた。
「コーヒーとか、好きなんですよね。やっぱりコーヒー、今日もたくさん飲むんですか?」
「ああ、はい、コーヒーはね」男性はにっこりと、とてもうれしそうに笑った。
「やっぱり気になりますか、この匂い。女房からもよく言われてました。なんか染みついちゃったみたいで取れないんですよね」
「取る必要ないと思います」私も笑う。
「いい匂いですよ。私もコーヒー、じつは好きなんです」
「そうなんですか? それはうれしいなぁ。どうです、お時間があれば一杯だけ飲んでいきませんか。いい豆が入ったので」
入った、なんてまるでいっぱしの喫茶店オーナーみたいだと思いながら、もう一度だけ素早く時計を盗み見た。
ぜんぜん大丈夫。
「それじゃあ一杯だけごちそうになります」
「ええ、じゃあそっちの椅子にかけて待っててください。すぐに、というわけにはいきませんけどね」
楽しそうに、男性が階段を上っていく。
座るように勧められた椅子は鏡台とは反対側にあった。まるでそっちがこの部屋のほんとうの姿みたいに溶けこんでいた。
そこに座ると、猫がひとつあくびをして私がさっきまで座っていた椅子によじ登り、からだを預けて丸くなった。
ごめんね。今まであなたの場所を取ってて。
「ごちそうさまでした。とってもおいしかったです」
ドアの前で、自分でも大げさだと思えるほど深々とお辞儀をする。
「また来ます」
「いつでもいらっしゃってください。コーヒー好きなら誰でも歓迎です」
最後に猫を見ると、こっちを見向きもしないでじっと丸くなっていた。全身でもう来るなと言ってるみたい。
ぜったいまた来てやる。
ドアを開けるとまたあの間抜けなチャイムが響いてちょっと噴きだした。
❆
耳をつんざくような拍手がホールを埋める。それに応えるかのように指揮者が舞台袖から出てきてもう一度聴衆に深々と礼をし、拍手が鳴りやんだ。指揮者が言った。
「えー、思いもかけず好評をいただき、アンコールは」指揮者が譜面をめくる。
「ちゃんとここに用意してあります」
聴衆から笑いが漏れた。
そして――時岡くんの学生生活最後の演奏が始まった。
私には音楽的知識なんてほとんどない。技量の良し悪しを聞き分ける耳があるわけでもない。
それでも、時岡くんのバイオリンだけは他の部員とは一線を画しているように思えた。重層的な音階の中で、時岡くんの弾く音色だけが私の心に染み入ってくるような気がしょうがなかった。
そうして、ジャンとひと際大きな音がして演奏は締めくくられた。その直後、今までよりも大きな拍手が会場を埋めつくす。
私もそれに負けじと手が痛くなるまで手を叩いた。
私の、時岡くんへの最後の拍手。
控え室の扉が開けられると、中からの熱気がいやというほど伝わってきた。正装した楽団員だけでなく、私みたいな外部からの人間もあちこちにいる。
その奥に、時岡くんはいた。周りの人と充実した顔で楽しそうに話しあっている。その姿を見たとたん、自分の脚がすこし重くなったような気がする。
でも大丈夫。
鏡の中の私を思いだす。そうしてみると簡単にどんどん脚は動いた。
「おつかれ。聴きに来たよ」
「あ、小泉さん。ありがとう、聴きに来てくれて」
いつも見ていた、その顔。
いつも聞いていた、その声。
それをもっとずっと見ていたいと思う。聞いていたいと思う。
正直な気持ち。
「演奏、良かったね。私、音楽とか詳しくないけど、良かったよ」
「ありがとう。ま、気合入ってたよ。自分でもこれは上出来かなって」
「自分で言っちゃうの?」
「言っちゃう言っちゃう。そんだけ良かったんだよ。な?」
時岡くんはそう言って――隣にいた彼女の腰を引き寄せた。
「はい。先輩、すっごく良かったです。感動しました」
「感動は大げさだろー」
「大げさじゃないですよ。良かったです、ほんとに。私、ちょっと泣いちゃいました」
そう言うそばから彼女の瞳には光るものが溜まっていた。
「また泣いてんじゃねえかよ、ばか」
時岡くんは彼女の頭を優しく叩いた。叩かれても彼女はなおうれしそうだ。
「良かったよ、ほんとに」
「ですよねー。小泉さんもそう思いますよね。感動ものですよね?」
「うん、ほんと」
「いや、でも小泉さん、聴きに来てくれてほんとにうれしいよ。俺が演奏するのもこれが最後だからさ、小泉さんには聴いてほしいと思ってたんだよね」
本心だ。たぶん本心だ。
だから困る。
「俺たち、春には卒業しちゃうけど……あーあ、もう卒業なのかぁ。早いなぁ」
「だめだって、しんみりするのは。そんなの、この場にあわないよ」
そう。そんなの、この場にあわない。
だから、さ。
もう……やめよう?
「卒論は順調?」
「うわ、いやなこと思い出させてくれるなー」
時岡くんは笑う。私も笑う。
「まあね、これで卒業できませんでした、なんてなったらかっこわるいじゃん。いちおう進んでるよ。ま、順調とは言えないけどね」
「私も。お互いに、頑張ろうね」
そう言って私は右手を前に差し出す。
どうか。どうか、震えていませんように。
時岡くんはいつもどおりに私を見て微笑んだ。
ずっと見ていたくて、叶わないと知った、そんな顔。
差し出された手をぎゅっと握る。思いのほか肉厚でそれでいて暖かい感触に全身が驚く。
「なんか、今日の小泉さん……きれいだね」
「あ、小泉さん、もしかしてこのあとデートなんじゃないですか?」
うん、もちろん。クリスマスだし。
用意しておいた台詞、が、言えない。
のどになにかがつっかえている気がした。
「ううん。だって今日はイブだしさ。イブはイブだよ」
ふたりとも固まってしまった。
だろうな。こんなこと言っちゃったら。
「ごめん、とにかく演奏がすごく良かった。それだけ言いたかったんだ」
「ありがとう」時岡くんはやっぱり最後には笑ってくれる。
「じゃあね。また来年、学校で」
「うん。小泉さんも」
踵を返す。
「あ、小泉さん」
「え?」
「メリークリスマス」
力が抜けそうになった。キザったらしい台詞に時岡くんのほうが照れて笑っている。
だから、私も自分にできる精一杯の笑顔で、
「メリー、クリスマス」
❆
外に出ると、雪が降っていた。このぶんだとけっこう積もりそうだ。
いいよ。どんどん降ってしまえ。この街を覆いつくすほどに。ぜんぶぜんぶ真っ白に塗りつくすまで。
今日はクリスマスイブなんだから。
近くを流れる川の水面にビルや街頭の明かりが反射している。
でもなんでだろう。
なんか今日はまた一段ときれいだ。
きっとこれもイブだからだな、と自分をごまかす。
降りしきる雪に右手をかざす。
すくい取るように手を伸ばす。
好きでした。
ずっと好きでした。今でも好きでした。来年になっても好きでした。
この雪が積もって街が真っ白になっても、ずっとずっと好きでした。
手にあたった雪はきらきらとした結晶を見せることもなく、すっと溶けていった。
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